「客が露地を出る時、亭主はその姿の見えなくなるまで見送る。
障子等早々としめることはよくない。姿が見えなくなって、心静かに茶席に戻り、
炉座に独座し、今頃は何方まで参られたであろうかと思い、
今日の一期一会が再び帰らぬことを観念して静かに独服する。
この時周囲は寂寞として打ち語らうものはただ釜一口のみ」
江戸時代末期の大老、井伊直弼が書いた茶の湯の本の中の言葉だそうです。
素敵な時間をすごした後、
その大切さ、かけがえのなさを寂しく思うとともに、
その相手を、その体験を心に思うときの魂の強い結びつき。
いいなぁ。と思います。
こういう感じって、
旅先で誰かと出会ってすごくいい体験をして、
その別れを寂しく思う感じとはちょっと違うのです。
相手のことを思い、誠心誠意準備して、
相手と本当に濃い時間をすごした後の感じです。
何が違うかはうまくいえないのですが、
相手と別れた後の思いの深さが違う気がします。
旅での出会いのような非現実さだけじゃなくて、
最初から相手のことを思って過ごした濃い時間は、
生々しさと非現実さが同居していて、
一人そのことを思うとき、その思いは確実に自分の身体にあることを認識できます。
そして、何かへの魂の結びつき、信頼を感じます。
ただ、それは何に対しての結びつきなんでしょう?
その体験を共有した相手に?
その体験を与えてくれた世界に?
どちらでもあり、どちらでもない気もします。
しいて言うなら、
その世界のなかで、その相手と織り成された物語への結びつき。
その物語は自分だけのものかもしれない。
でも、そこで、その人といなければ起こりえなかった物語。
その物語への結びつきは、自分が生きるときの見えないチカラになっている気がします。