ここにいていい自分/世界は自分の鏡

ここ2日間で24時間以上寝て、
いろいろ(主に田口ランディ、村上龍、江国香織、荒川修作)読み漁っていたら、
最近もやもやしていたいろんなものがつながった気がしました。

生きることって、
何者でもない、ただそこにいる自分を受け入れるところから始まる。
それは、誰かが決めた社会的価値観じゃなくて、
自分は何が好きとか、何を大事にしているとか、
自分の内なる声に耳を傾け、自分の主観的価値観に気付き、受け入れること。
そして、主観的価値観と社会的価値観(社会の中での意味付け)のあいだで、
折り合いをつけながら仕事をし、充実感を得て、毎日を生きていく。
そうすることで、「自分がここにいていい」ということを信じられる。

そして、先月のファルージャでの殺人事件についての田口ランディのブログ(*)を読んで。
「本当に、彼の命が助かることを心から祈っていた?」
と自分も問われたとしたら、
「絶対に心から祈っていた」とは言えない。
なんとなくだけど、彼の行動は意味があるとは思えない気もする。
でも、彼は自分の価値観でイラクに行った。
そして、それを認められない自分がここにいる。

世界は自分の鏡。

「他人に対して認められないことは、自分に対してできていないこと。」
そのとおりだと思う。
自分が生きている、生きる価値があるということを心から信じていたのなら、
彼の無事を何の迷いもなく願えたのかもしれない。

自分は主観的価値観ではなく、社会的価値観のみによって
彼の主観的価値による行動を判断していた。
もちろん、社会が、国が具体的にどう行動するかは、
主観的価値観と社会的価値観の折り合いをつけなければならない。
でも、個人個人がどう思うかは別の話。

社会システムにとって個人個人はまったくの匿名で
誰が誰でもかまわないし、個人の死は構成要素の消滅でしかない。
でも、個人にとっては主観的価値こそ最も尊重すべきものであり、
社会全体として求めているものは個人全体の充実であるはず。
各個人の主観的価値は社会的価値と折り合いをつけるべきものであるが、
社会的価値によってすりかえられるべきものではない。
同時に存在し、常に共生していくもの。

自分の価値を認め、他人の価値を認めること(主観的価値)
それと、社会として効率的な行動をすること(社会的価値)
がごちゃごちゃになっている。
多分、どこの視点から見ているのかをはっきりさせないからややこしくなっている。

こんなふうになってしまったのはいくつか理由があると思う。

まず、自分と社会、人類全体をつなぐ概念についての意識がないのだと思う。
人類と自分個人の主観、国家と自分個人の主観とか、
それらのことを普段意識していないから、
その間の議論がすっ飛ばされていることに気付かない。

そして、想像力がないのだと思う。
想像力がなければ、自分の生きている価値について意識があっても、
彼の生きる価値について思いを巡らすことはできない。

*http://blog.ameba.jp/randy/
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by w_junji | 2004-11-15 12:37 | 自己紹介の代わり


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