当たり前なんですが、
日本語が通じることと意思の疎通ができることはまったく別次元の話。
何ができて何ができないのかをきちんと意識することは重要だと思う。
日本語が通じるということは、
同じ暗号の作成器と解読器を持っているというだけのことで、
それを通じて何かの意味や気持ちを伝えることができるということは意味していない。
ある2人がメールのやり取りをできたとしても、
2人ともPhotoshopを持ってないと、
一人が作ったPhotoshopのファイルをもう一人が見ることができないように、
記号のやり取りができても、そこから意味を読み取るソフトウェアが共通でないと
そこにコミュニケーションは成り立たない。
なまじ、日本語が通じていると、
伝わっているという錯覚、甘え、が心のどこかに生まれてしまう。
お互い日本人であれば、文化的に共通のバックグラウンドはあるかもしれないけれど、
感情のような、より個人的なことを伝えようと思ったら
伝えなければならないことは思ったよりたくさんある。
だったら、言葉すら通じない外国人と
お互いわからないことを前提に話をしたほうが割り切れてよい気すらする。
日本語が通じるということが、
逆に、どこかで、コミュニケーションに対する危機感を忘れさせてしまうのでは?
価値観とかぜんぜん違うのに、
同じ言語を使用しているだけでコミュニケーションしている気になってしまう。
そのちぐはぐさが違和感を生んでいるのかも。