文學展

佐世保はバーガー,アジ,イカの街です.

2011年7月15日(金)~9月4日(日)
佐世保市博物館島瀬美術センター
平成23年度企画展「感じる文學 -動く・触る・薫る-」

Saccade-based Display: "meta-literature"

安藤英由樹
渡邊淳司
田畑哲稔
マリア・アドリアナ・ヴェルダーズドンク
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表示されている文字は佐世保で有名な以下の詩をモチーフにしています.

『西海讃歌』

原詩 藤浦洸
作曲 團伊玖磨

空いっぱいに 空があるように

海いっぱいに 海があるように

人よ 人よ 心いっぱいに

美しい心を持って

この空を この海を この土を 愛そう・・・
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# by w_junji | 2011-07-15 17:28

淡路島

コンクリート打ちっぱなしの建築って
自然の中にあるほうが美しいように思います.
古代遺跡のようです.

「淡路島夢舞台」という場所はもっと知られてよい場所.
ここには,海,空,緑,愛,住,と100個の花壇があります.
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以下,今更ながらお知らせ.

2011年6月11日(土)~2013年春
日本科学未来館3F 零壱庵-デバイスアート・コレクション

メディアラボ第1期から第8期までの3年間に展示した作品の中から
代表的な7作品をメディアラボでの展示期間中に得られた研究成果と共に展示します。

「サッカード・ディスプレイ: blink to see__」
安藤英由樹(感覚-運動系インタフェース研究者、大阪大学大学 准教授)
渡邊淳司(知覚研究者、NTTコミュニケーション科学基礎研究所)
田畑哲稔(映像作家)
マリア・アドリアナ・ヴェルダーズドンク(アーティスト、研究者)

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# by w_junji | 2011-07-01 00:10

爪の先の10000倍はどのくらい?

『数字のモノサシ』 (大和書房) 寄藤 文平 著

という本の中に,10000倍を身体を通して理解するという試みが書いてあります.


爪の先の白い部分を「1」とすると,

爪全体は「10」

指全体は「100」

手全体は「1000」

両手を広げて右手から左手までが「10000」


・このクジは10000人に1人の割合で当たります.

・3月には6月の10000倍の放射能が漏れました.

などは,爪の先に対して両手の端から端までの割合.


日本の人口(約1億:10000x1万)を右手から左手だとするとと,
東京都の人口(約1000万:1000x1万)は手一つ.
世田谷区の人口(約100万人:100x1万)は指一つ.
自衛隊の人数(約25万:25x1万)は指の第一関節からさきくらい.
東京ドーム収容人数(約5万人:5x1万)爪の半分.

*日本の人口を両手間に当てはめるやり方だと,そのまま「万」を抜くだけで適用可能.

日本では,一年に約100万人(指一本)の方が亡くなります.
そのうち
交通事故で亡くなる方は約5千人(指一本のうち爪の先の半分),
自殺者は約3万人(指一本のうち爪の1/3).


とか,そういうことに対して,

その数字がどれほどのものか,

記号としてなんとなくわかった気になって,イメージで「多い」,「少ない」と判断する前に,

自分の身体であったり,実感を持って理解できるスケールに落として

正確に実態を把握する必要があると思われ.
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# by w_junji | 2011-06-26 15:16

眠れず

誰かの気持ちになって考える.

1:その人の顔のアップを想像する(1人称)
2:その人から見た世界を想像する(2人称)
3:遠くから引いて,自分とその人が入った絵を描く(3人称)


応援する.

1:きっと誰もが”終わり”と感じていた.
2:でも,”続き”を示した.
3:むしろ,それは”始まり”だった.

そんな人を応援したい.


つなぐ.

1:世界のルールの違いを知る.
2:端となり,笑いによって結ぶ.
3:道化なる愚か者ゆえ許される.


コメントする.

1:別の新しい意味付けをする.
2:立体感が増す.
3:知らない人にとって価値が出る.
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# by w_junji | 2011-05-21 05:18

日常ってどこにある

地震や放射能が生活のなかに現れ,もう一ヶ月以上たちましたが,
不思議なことに,危機の中でも,なんとなく,日常が立ち上がってくる.

被災地の方々に比べれば,関東にいる自分は
あまりにもいつもどおりかもしれないですが,
日に10回を超える地震や,身の回りにシーベルトという気にすべき単位ができたり,
2ヶ月前には考えられなかったことです.

今では,家具を買うのに耐震用の部品を一緒に買ったり,
この野菜の産地はどこかしら?など自然に考えてしまう.
それが,日常になりつつあります.

人は,状況が変わっても生活の中にルールを作り出し,
それにのっとって生きていくようにできている.
毎日,太陽は昇るし,日が暮れる.
朝になれば,いつもの手順で出勤する.
夜になれば,いつもの場所で眠りにつく.

だけど,一方で,非常時には,
日常を続けてたものを何のためらいもなく壊さなければいけない.
一回,ルールを捨てて,信じていたものを疑い,
もう一度,状況にあったルールを作り直す.
そんなときは,身体が反応するままに判断するとき.
時間とタイミングが問題になるから.

世界の中で,自分の感覚で知ることができるものはそんなに多くない.
ほとんどは記号の情報としてやってくる.
同じことを繰り返す日常は,記号化されているほうがいろいろ効率がよい.
だけど,そればっかりだと,
非日常になったとき,記号に対して身体が反応する瞬発力が衰える.

そんなバランスをどうやって維持していくか.
スポーツクラブに通って身体を鍛えるように,
記号に対して,自身との関係性を適切に想像する筋力を鍛える方法があるでしょうか.
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# by w_junji | 2011-04-19 12:27

この状況のなかで

事態収集に数ヶ月~年レベルが必要な福島原発のことを考えると
関東圏で生活をしている私たちは
その生活スタイル自体を変えなければいけない気がします.

いつもより考えることが多くなる.
洗濯物を外に干さない.
外出するときはマスクをする.
家に入るのに塵を落としてから入る.
外国産の食品をとったり,ミネラルウォーターを飲んだり.
そのうち出るであろう放射能予報を見ながら,自身でその日の行動を考えたり.

これら全てを行うべきか,何を行わなくてもよいのか.
食事,空気のリスクを把握して,自身でどうやって管理していくか.

考えすぎといわれるかもしれませんが,
特に,お子さんが小さい家庭は気をつけすぎるくらいがちょうどよいし,
杞憂であれば,それに越したことはありません.

*200キロ以上離れた福島から,直接の放射線は殆ど到達しませんが,
 塵のような放射性物質が風にのって飛んできます.
 この飛んできた放射性物質から出される放射線の身体への影響が
 各地で計測されているものなのですが,それだけでなく,
 この物質を体内に吸い込んだり,それがついたものを食べたり飲んだりすると
 体内に蓄積されて距離ゼロで放射線が身体に影響を与えます
 (ただし,程度にもよりますが,時間とともに自然治癒していくそうです).
 物質の種類によって,どこに影響するかなど違いますし,
 この影響は,概して,小さい子どものほうが大きいため
 現在の状況だと,子どもさんは全てをやったほうがよいと自分は思います.


また,原発というリスクを処理しきれないということが明らかになってしまった今,
日本がエネルギーをどうやって得ていくかにしても,変わることと思います.
たとえば,中央集権的に電気を管理するだけでなく,
各家がモニタリングしながら,それぞれ消費量を20%減らす.
おそらく,それができるだけで計画停電はなくなるのでしょうし.

結局,どれだけのリスクをとって,自身の生活を送り,
それをモニタリングしながら柔軟に変更していく.
それを誰かに頼るのではなく,自身でしていかなければならない.

誰かが大丈夫だといったから安心し,ダメだといったら慌てふためく,
そんな生き方はもうできない気がします.
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# by w_junji | 2011-03-27 23:02

地図と暦を超えて

つい一時間前のバーレーンのデモの様子です(一部見れないものもあり).

この動画が表示されるとき,
今から何分前という録画からの経過時間と録画された場所の地図が一緒に出てきます.

***

私たちの心の中は,空間と時間がはじめにあって,
その上にイベントが記憶されるわけではないように思う.

心にイベントがいくつも生じることで,その関係性が空間と時間を作り出す.
すべてが同じ色で,何も変わらない世界しかなかったとしたら,
そこに空間や時間の意識は生じるだろうか.

心に地図や暦は,はじめから存在しない.
あるのは,「私」の「今」「ここ」と,そしてその過去の記憶との距離. 

上の動画を見ていると,時間も,地図も,もちろん,撮影の視点も
撮影者「私」の「今」「ここ」を中心とした基準で表示されている.

どこかの建物の上から撮影されていたり,
16時40分(バーレーン時間)やグリニッジの時間表示,
よく見る世界地図でのバーレーンの場所で表示されていたら,
あの動画は「いつか」「どこか」の記録にしかならない気がする.

撮影者「私」の記憶であり,その世界の描写である動画は,
その視点や時空の起点を,観察者「私」と重ねることで,
「私」の時間や空間の一部にもなっている.
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# by w_junji | 2011-02-15 00:49

われわれはあまりに個(個体・個人)にとらわれすぎていないか

『ネットとリアルのあいだ』(西垣通2009)のなかで
情報技術によって個々人が大きな社会システムの中に匿名の人間として組み入れられ
個としての生きる力を個人の中にしか求められなくなってしまった
現在の状況を氏が語るなかで出てきた言葉です.

違うところで,何かがつながったような気がしました.

チュニジア・エジプトの革命の生の情報を日本語に翻訳して
Twitterで配信しているモーリー・ロバートソンさんさんという方の文章です.
長いですが,引用させていただきます.

「価値観の違う人たちがそれぞれ、幸せを追求するためには同居・共生をしなくてはならない。
 しかし現存のルールはもしかすると過去の植民地支配、資本主義、グローバリズムなどの
 しがらみに引きずられ、けして良い解決策を生み出すことはできず、また新たな「テロとの戦争」
 という無限の争いを引き起こすという構造になっているのかもしれない。
 つまり価値観に世界性がないのです。」
「それを乗り越えて、お互いに違う、だけど限定的には分かり合える、
 そして共鳴し合える部分を楽しむことができれば、それが普遍性を帯び、
 固有性・単一性と多様性の間にブリッジを造れるのではないか?」


魚や鳥の群れの個々の個体は,どこへ向かっているのか,全体がどんな形をしているか
その全貌は知らないかもしれない.
だけど,あたかも群れ全体がひとつの意思を持つように動くことができる.

人間の身体的に感じる力は動物よりも劣っているかもしれない.
しかし,現在,私たち人間が手にしている技術は,
個人としての感受性を
遠くの他人へだけでなく,多くの人の集まりの中から生まれる全体の意思や,
人間全体の意思へ,広げることができるのではないのだろうか.


参考文献
Groove Japan(モーリーさんのサイト)http://groovejapan.jp/videos/04/
エジプトの映像 http://www.youtube.com/watch?v=w3FQXYdyHCg
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# by w_junji | 2011-02-09 01:22

宮崎とエジプト

2011年1月29日~2月13日
文化庁メディア芸術祭 巡回企画展  @みやざきアートセンター 
「Parallel Lives」 安藤英由樹,草地映介,渡邊淳司

エジプトの革命の様子(英語)

私たちの感覚は,どこまで,想像力を広げられるか.
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# by w_junji | 2011-01-29 23:01

インド

今年の仕事始めは,インドでの展示でした.

展示の中で最も聞かれたことは

「その技術は何に使えるの?応用は?製品になっているの?」

技術は人の心のために使うものには成りえないのでしょうか?

インドの人にとって心の豊かさとはどのように実現されるものなのでしょうか?

技術を開発する人が
「それで何ができる」という機能についてだけでなく,
それが私たちの生活,社会にとって「どんな意味があるのか」という
技術の価値について問いかける試みは,常に技術開発と共に行われることのように思います.

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# by w_junji | 2011-01-17 01:47

MOON

以下、曽田正人 『MOON』7巻より
( 『MOON』は宮本昴というダンサーを主人公としたバレエのダンスマンガ)

「すごい技を使って技ではない何かを伝える。そういう世界でわたしは生きたいのです。」

「わたしの一生は、バレエの真理をつかむためにある。」

「存在感(エネルギー)など無い。ただ、あるがまま、”美しいだけ”のもの。」


サラっとマンガの中で出てくる台詞なのに、とっても心をつかまれる。
「技」を「研究」にして、「バレエ」を「人間・世界」に変えたら。


「すごい研究をして研究ではない何かを伝える。そういう世界でわたしは生きたいのです。」

「わたしの一生は、人間・世界の真理をつかむためにある。」

「存在感など無い。ただ、あるがまま、”世界の理”だけ。」


このマンガ、もともと『昴』というタイトルだったのに、休載後『MOON』に変更されました。

太陽のように外へ外へ自分を表現することは,
結局のところ、人の心を動かすことにはつながらないように思う。

むしろ、ただただ、月のようにそこにあるだけ。

私たちは月を見るとき、太陽の光を見ているのか、それとも月を見ているのか。

もし、真理という見えない光があるのならば、
それは何かを映すことでのみ感じることができる。

もし人間や世界に真理というものがあるのなら、
芸術家や研究者はその光を映し出す月となることが仕事のような気がします。
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# by w_junji | 2010-12-29 02:37

北風と太陽

最近、趣味が変わったのかもしれません。
考える対象が言葉とか、感情移入についてになりました。

言葉のはじまりって、どんなだったのでしょう。
言語学者ではないので正確なことはいえませんが、妄想してみると。

音を聴いたら身体が動いてしまう。
そのやりとりが、言葉のはじまり。

自分が喜んで「ウホ!」って叫んだら、
何となく周りに居た人がそれを模倣したくなる。
「ウホ!」「ウホ!」って。
同じような身体の構造や生活様式を持っていたら、
多分、自分の喜びの叫びは、周りの人にも喜びの音になって、
そうすることで、ある範囲で喜びが伝播する。
そんなこんなで、同じ音に反応する人たちの間で
「ウホ!」のバリエーションが増えて言葉化したかもしれない。

一方で、敵を見つけて「キー!」と叫ぶ、
「キー!」は嫌な音だから、その敵は逃げる。
これが通じるのも言葉のはじまりかもしれない。

味方をつくるためか、敵を自分の意思どおりに動かすか。
真似をするか、違うことをするか、
どちらにしろ、音を聴いたら身体が動いてしまうことがはじまり。

では、ここでもう少し考えてみると、
音を聴くときに、おそらく声を出す人は聴く人の見える範囲にいる。
そうならば、見たものと聴いたものを同時に模倣する。
ある人は両手を挙げて「ウホ!」という。
周りのみなも同じように、手を挙げて「ウホ!」というと、
最初に「ウホ!」を叫んだ人の気分が分かってくる。
一人が下を向き「ウォーン」と叫んで、
周りも真似をすると、なんとなく悲しい気分が伝播する。
それって、既に身体の模倣による感情移入。

そういうのって、身の回りになかっただろうか。
映画とか小説は、身体的なものというより、
もう少し、物語や身体的想像力の問題のような気がする。

プロレスとかはそれに近いのかも。
身体を全く一緒に動かすわけではないが、
身体や声から、リングの上の人に感情移入してしまう。

多分、それ以外にも心動かされる要素、
例えば、見る人の予想を裏切るストーリー的な快感などいろいろあると思いますが、
何か関係はあるかもしれない。
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# by w_junji | 2010-12-09 00:09

リサーチプレゼンテーションとしての展示

人が、どこかで知りたいと感じていたものだけど、未だ明確には問われていない。
そういうものの答えを、体験として提示する。
答えをコンテンツそのものではなく、フレームワークとして提示すると、
体験者は自分の記憶をそのフレームにあわせて呼び起こす。
そして、浮かび上がった記憶には、一つの法則・言葉が与えられ、心に定着する。

自分はこのような過程に関与しているのだと思いました。

文化庁メディア芸術祭京都展

「Parallel Lives」
安藤英由樹, 草地映介, 渡邊淳司

本作品は2台のタッチパネルモニタからなり、
それぞれのモニタ映像のなかには人が歩いている。
ひとつのモニタのなかは実体のみで影がない人の世界で、
もう一方のモニタのなかは影のみの人の世界である。
モニタに映る人が触れられると、触覚を伴って消え、もう一方の世界に現れる。
人は触れられることで、その存在の形態を変えながら2つの世界を行き来する。
実体と影の2つの世界が、触覚を通して結ばれることで、
わたしたちの見る触るという感覚と、何かが存在するということの意味を問いかける。
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# by w_junji | 2010-09-02 19:41

触り言葉で話してみよう

キッズプログラムといいながら、幅広い年代、多くの方の参加をお待ちしています。
もしいらっしゃる場合、予めご連絡いただけると確実です。


ICCキッズ・プログラム2010 「いったい何がきこえているんだろう」
2010年8月4日(水)~9月5日(日)(月曜休み) 11時~18時
インターコミュニケーション・センター(ICC)


ワークショップ「触り言葉で話してみよう」
早川智彦+松井茂+渡邊淳司

2010年8月14日(土)、15日(日)、28日(土)、29日(日)
各日2回:13時~14時30分、15時30分~17時


・展示の様子
http://www.junji.org/texture/
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# by w_junji | 2010-08-13 01:23

ひとごとのようなわたし

なんとなく、自分の中では確信はあるのだけど、

うまく言葉にならないとき、どうしますか?

友人たちの答えは。

・寝て考えてみます。

・じんわり浮かんで来るのを待っています。

とのこと。

なんだか、自分の身体や意識を少し客体化していて、自分をひとつの装置としてみているような。

そういう感じ。とてもよいなぁ。

そうだよね。と笑ってしまった。

ぼくもそうする。


昨日の心音移入の詩ではないですが、

考えたこと、言ったことの何倍も伝わったとしたら、それは奇跡かと思ってしまう。

そういうことって、元気になるにはとても大事。

同じ目線、感覚をもったひとと何かが伝わり、想像・創造が生み出されていく感覚。
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# by w_junji | 2010-08-11 00:23

あ、いま、心音移入しちゃった・・・

2121で展示されている「心音移入」という作品の名前を
タイトルのように使っている方がいらっしゃるそうです。

また、心音移入に関して、以下のような、素敵な詩を書いてくださった方がいらっしゃいます。
種生芽実(たねおいめぐみ)さん という方で(ウェブで詩を発見しました)、
ウェブには詩を中心に掲載されています。
許可をいただき、ここに引用させていただきます。
自分も、世界と心が重なる感じ、平和につながるとよいなと思います。

・・・・・・・

心音移入より

こどものスタート前
こんなに小さなこどもにも、わたしのどくどくは重なる。

音ひとつで、たにんがたにんじゃなくなる。

うつるのは、わたしではないどなたか。

けれども、聞こえるわたしの心音はなぜだかそのどなたかに重なることができる。

どなたかは、どなたかであり、

わたしは、わたしである。

会ったこともない、どなたか。

音が重なったとたんに、
気持ちを知ることができたような、
どなたかのこともとおいひとではなくなる。
気持ちを理解できる、そんな気がしてくる。

心音を重ねる。

ひととわたしが重なる。

個と個であるが、同じ気持ちを抱くものであぁる事を知る。

すると、どうだろう。

分かり合えないひとなど、いないのではないかという気持ちになってくる。

1つずつくらいわかる気持ちがあるんじゃないか。

心音を重ねてみたら 平和になる気がした。
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# by w_junji | 2010-08-09 18:08

いきるためのメディア 知覚・環境・社会の改編に向けて

企画自体は3年以上前からいただいていたのですが、
やっとでました。

『いきるためのメディア -知覚・環境・社会の改編に向けて 』 (春秋社 2010)

渡邊淳司 編著、田中浩也 著、藤木淳 著、
丸谷和史 著、坂倉杏介 著、ドミニク・チェン 著

以下、オビより

拡張現実、クラウド型コミュニケーション、情報を物質に変える3Dプリンタ。
日常に浸透する情報技術によって私たちの生活はどう変化するのか。
最前線の探究例から、“未来”を描き出す。


よろしければ、ぜひ、ご購入ください!

直接会える方には、著者割引でお譲りできると思います。

また、書評してやるから、サンプル送れ
という方がいらっしゃいましたら、w_junji@hotmail.com まで。

よろしくお願いいたします。

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# by w_junji | 2010-08-07 17:22

「告白」という映画

2004年にGas Van Santの「エレファント」を見たときの感触と似てる。

何がすごいのか、すぐにはわからないのだけど、
見たあと、救われて元気がでるのと同時に、研究をやめてもいいんじゃないかという気分になる。

「エレファント」とちがって、美しさに圧倒されることはないのだけど、
出演者の選び方とか、なんとなく背景にある人間のイメージが似ているのかもしれない。

日常と非日常と、狂気と愛と、他人事と自分ごと。
救いと絶望。エンタテインメントとシリアスさ。

相反するものが矛盾なく強く存在している。


「なぁーんてね。」



という日本語は、矛盾をうまく同居させる気がする。
どう使われているかは映画を見てのお楽しみ。

http://www.elephant-movie.com/elep_index.htm
http://kokuhaku-shimasu.jp/index.html
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# by w_junji | 2010-07-29 01:58

“これも自分と認めざるをえない”展

2010年7月16日~11月3日 21_21 DESIGN SIGHT

佐藤雅彦ディレクション “これも自分と認めざるをえない”展

「心音移入」
安藤英由樹+渡邊淳司+佐藤雅彦

体験者は、聴診器を自分の胸にあて、
ヘッドフォンを通じて自分の心音を聞きます。
そのとき、目の前には、緊張している人の映像が流れます。
(たとえば、運動会スタート前でドキドキしている子供)

自分の心音を聞きながら映像を見ているうちに、
その音が自分の心音なのか、映像の中の人の心のどきどきなのか
わからなくなってくる。

心音が感情移入をする架け橋になる。
だから、心音移入という作品名。

心臓はワタシにとって、とっても大事なものだけど、
そこから聞こえる音、心音を聞いても、
自分のものであるのか他人のものであるのか区別することは難しい。

自分にとって大事なものなのに他人との区別がつかない。

だけど、自分という個人を成立させる大事なものがオリジナルでなかったとしても、
それに何の問題があるだろうか。

むしろ、大事なものを共有しているからこそ、
ワタシは、他人の緊張感だったり、心の動きを想像をすることができる。
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# by w_junji | 2010-07-17 16:10

ちょっとした希望

疑問符から広がり始める世界がある。

誰もが”終わり”と感じていることに、実は”続き”があった。

誰もが”複雑”だと思っていたことは、実は”単純”であった。

誰もが”同じ”だと思っていたことは、実は”異なる”ものであった。

誰もが見落としてしまう”小さな”ことに、実は”全て”が込められていた。

誰もが”そのまま”解釈してしまうことの背後に、”メタファ”があった。


むかしは、才能を持った他者に出会うと、ため息が出て、少し落ち込むこともあったけど、
今は、ずっとその人の成長や変化を見続けていきたいという気持ちが先に出るし、
何か自分もその力になれたらと思う。


自分は自分のできることをやり続けることしかできないし、
あと、今、自分がやっていること、今の私を支えているものを誰かに伝えることで、
誰かの何かが少しでも変わるのなら良いと思う。

それしか、私には誰かの役に立つ方法がないし、
それができると信じてる。確信より、もっと強く。
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# by w_junji | 2010-06-06 03:50

透明な感じ

なんだか、私にとって世界は感じるもの、そして、私のなかを通っていくもの。

自分が世界を観測する主体にならないこと。

むしろ、観測する装置自体になること。

そうしないと、いつか自分に押しつぶされてしまう。

自分に奢ることも、他者を蔑むこともなく。

ただ、そのままに。
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# by w_junji | 2010-05-23 03:04

76

最近、同い年の人達が、(なぜか、同い年ばかり)
がんばっているのを見たり、聞いたりすることが多い。

その人たちの考え方とか、
それぞれが、これからの一生をかけて、やっていこうとしていること。

それらに、とっても勇気や元気をもらっています。

だから、最近、少しテンションが高いのかもしれません。。。


自分の愛しているものをどうやって、社会に価値あるものとして受け入れてもらうか。

そのとき必要なことはおそらく、自分の視点や自分にとっての価値を押し付けることじゃない。

自分の愛を伝えようとするのではなく、

受け手の人が、世界を見るときの眼鏡として、世界を作るときの素材として、自分が存在すること。

そのときの自分は主体ではないのだけど、受け手の一部だったり、世界の一部だったりする。


これからの一生をかけてやること を決心する理由は、自分の内側にはないかもしれない。

でも、自分でない他の誰かだったり、何かが理由で、そこにいることを決めたのならば、

それは揺るがない。


自分の愛する対象を見れてよかった。作れて良かった。 という人がたくさん増えると良いと思う。
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# by w_junji | 2010-04-30 03:23

連休ワークショップのお知らせ

文章の触りごこち -文章と心のあいだにあるもの-

会場:日本科学未来館 会議室1(7階)

主催:丸谷和史+渡邊淳司+PINTO

日時:
5月1日(土) 13:00 ~17:00
5月2日(日) 13:00 ~17:00

定員:各回最大8名(予約制)

対象年齢:15歳以上
予約宛先:info_workshop@visitope.org

ただし、各日15:00 – 17:00は予約者以外も随時参加・退場 可能

概要
私たちが、普段、目にする文章は、文単位、段落単位に区切られて提示されます。
しかし、文章には、文法的な構造を超えた、意味の流れや抑揚が存在します。
本ワークショップでは、そのような意味の流れや抑揚を、「文章の触りごこち」として捉え、
紙面上に架空の凹凸パターンとして表します。
そして、いろいろな人が作った凹凸を重ねると、私たちが文章を読んでいく上で
心にひっかかるポイントが浮かび上がってきます。
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# by w_junji | 2010-04-26 18:38

つみあがらない毎日

「いま、ここしかないの。」

と言ったその人の意図はどっちだったのだろう。

それは、輝ける未来は今目の前の出会いの積み重ねにしかない
 という意味か、
それは、今出会いを欲するのならば出会い、忘れたとしても、また、出会いなおせばよい
 という意味か。

積み重ねるという意味では全く逆。

自分も、今何をしているのか忘れてしまったり、言っていることに一貫性がなかったり。
積み重ならないことが多い。

だからというわけではないけれど、
後者の積み重ねることのできない、もしくはそうしない態度に
どうしようもない切なさと愛しさを感じてしまう。

そこで、積み重ねようとして無理にがんばったり、見栄を張ったりする必要はない。
ただただ、いま、ここで、素直になれればいい。
逆にそれは、人それぞれ、自分にあった場所を見つけ、作ることに繋がると思うから。



「技術でなく思い、言葉でなく祈り」
(田口ランディさんの本より)

という言葉が好きです。

人は、物の向こう側に思いや祈りを感じ、共有することができる。

そこには、見えるものではなく、見えないもののルールがある。

文章で言うなら、文そのものの文法でなく、文の間の文法。

そのルールは身体にくる、Somaticなもの。
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# by w_junji | 2010-03-28 01:06

祝女

あんまりテレビ見ないのですが、この番組好きです。

祝女 -Shukujo-
http://www.nhk.or.jp/shukujo/

女の本音や本性をテーマにしたオムニバス形式の笑えるショートストーリー集!

仕事、休日、アフターファイブ…。
女性なら誰でもうなずける日常生活の瞬間を切り取り、
友人同士や主婦仲間、職場の先輩・後輩、恋のライバルなど、
さまざまな人間関係にある女たちの悲喜こもごもを描きます。
(ウェブより)

ひとつひとつの話も面白いんですが、その並べ方、構成がすごく面白い。
内村宏幸さんというウッチャンナンチャンの内村さんの従兄弟の方が作っているそうです。
NHKやるなぁ。と思います。

週末から、素敵なものに出会ってばかり。

長谷川等伯の水墨画は、見る距離によって違う世界を見せてくれる。
素材が見える近くの距離から、少しずつ下がっていくと、それが空間イメージに変わっていく。
その感じ、なんとなく、モネの絵に似ている。
そんな水墨画とあわせて、同じイメージで短歌の書があわせてある屏風があって、
それは、すごい。文字が空間化している。

ルノアールの絵はいつ見ても、人の存在そのものが、絵のなかにいる感じです。
モネとか、フェルメール、ラリック、の作品もそうですが、
はぁ。とため息だけが出る。


長谷川等伯 没後 400年 展
上野 東京国立博物館 3月22日まで
http://www.tohaku400th.jp/

ルノワール―伝統と革新 展
六本木 国立新美術館 4月5日まで
http://www.renoir2010.com/

最近気になる生き物:ハクビシン
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# by w_junji | 2010-03-14 23:56

月の重力

いつも無茶苦茶なのに

時折、物事の本質をさらっと言いのける人がいる。

物事の本質というよりは、ある人間個人の本質と言ったほうがよいかもしれない。

まるで、巫女か占い師のように。

それは、なぜか、たいてい、女性だ。


世界は月と太陽でできている。

太陽は月の反射がないと自分の存在を知ることができない。

月は太陽がいないと、自分の存在が消えてしまう。


ちなみに、太陽の主成分は気体で、月の主成分は固体。

太陽の周期は一年で、月の周期は一ヶ月。


私は、見えないものしか信じない。

虚も実も、同じだけ価値があるのなら、それでよいと思う。

寄る辺なき重力に導かれ。
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# by w_junji | 2010-03-03 01:26

Techtile展ワークショップのお知らせ

Techtile展2009でワークショップをさせていただきます。

触感表現ワークショップ1 :「文章の触りごこち」

丸谷和史+渡邊淳司+PINTO

2/27(sat) 15:00 - 18:00,
2/28(sun) 11:00 - 12:30,13:00 - 14:30

一見時間長いですが、一人あたりおよそ30分~1時間で
途中参加、途中退場 可です。

「なお、ワークショップ参加人数には限りがあるため、
 参加ご希望の方は事前に info@techtile.orgに
 希望ワークショップ名・希望時間・お名前をご連絡ください。」

とのことですが、WS時間は随時参加可能ですので、
多分、ふと、来ていただいても参加可能だと思います。
それか、自分に直接連絡いただいても大丈夫のような気もしてきました。
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# by w_junji | 2010-02-23 00:03

熱帯夜

私は、仕事中つけっぱなしにしておく習慣のCD

-きょうはリッキー・リー・ジョーンズを聴いていた- を切り、

秋美の鞄を眺める。

家の中に秋美のいる時間が、私はほんとうに好きだ。

彼女が仕事になど行かなければいいのに、と思う。

お風呂場から、威勢のいい水音が聞こえている。



江国香織 「熱帯夜」 『号泣する準備はできていた』 より


ここ数日、好きな文章を書き出す作業をしていました。

いつ読んでも、江国さんは、すごいなぁ。とおもう。
(さん付けですが、知り合いでも何でもありません。)

読んでるだけで、心がマッサージされる。

そして、好きな文章のルールのようなものを発見する。

自分の好きな文章は、

「主人公の行動」
「主人公の気持ち」
「情景(好きな対象もしくは環境)の描写」

と続くことが多い。

そんなことで、江国さんの魔法は何も変わるものじゃないけれど、

少しだけ、ヒミツがわかるのはうれしい。

そして、いつか、研究にならないだろうか。インタビューしてみたいな。


それと、今日、聞いたシンポジウムで、

社会学者のような人が

「人間は意識の制約に縛られている」といっていた。

いつまでたっても、自分のことはわからないと。

でも、そんなこといったら、人間は、言語文法にも、知覚にも、身体にも縛られている。

縛られているものだらけ。

こないだの本(言語表現法講義)にも書いてありましたが、

それを捨てることができないのだったら、

むしろ、その制約をよく知り、使いこなすことが、そこから自由になることだと。

日本語で考えている限り、日本語の文法に縛られる。

もちろん、文法に縛られている自分を意識することは重要ですが

でも、それ以上に、自分で日本語を使いこなし、自分なりに変容させることができないと、

日本語に縛られたまま。

文章を書くプロがそうであるように、

文法という縛りのなかに、文と文のあいだのなかに、

読み手の思いをどれだけ呼び起こすことができるかということが、

文法から自由になるということなのでしょうか。



オススメの展覧会

東京オペラシティ アートギャラリー
「エレメント 構造デザイナー セシル・バルモンドの世界」
http://www.operacity.jp/ag/exh/index_exh.php

東京都現代美術館
「MOTアニュアル2010 装飾展」
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/111/1
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# by w_junji | 2010-02-21 02:00

沈黙と法

正論を言えば、解決するわけじゃないのはわかっているけれど、

ただ、何も言わず、沈黙によってやり過ごす。

それも、できない。

だとするならば、私は、そこから去ることを選んでしまう。


本音、いいたいこと、やりたいこと、それを面と向かって、言い合うあいだは

何かを伝えあうというのは本当は無理なんじゃないだろうか。

ドロドロとした、自分の問題を他人に解決して欲しいという欲望は、相手を思考停止させる。


伝えることが意味をもつのは、おそらく、同じ方向を向いている人とだけ。

ただあるのは、その世界の見方が、すきか、きらいか。


およそ、世界にあるのは、

特定個人の見解ではなく、すでにあるものを見つけなおしたもの。

誰かの意見ではなく、誰のものでもないルール。


Law of world を見つけていくことが、自分にとっては Joy of life。

そして、それが最終的にどうなっても受け入れる、軽やかさ、潔さ。
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# by w_junji | 2010-02-16 19:30

言語表現法講義

最近、読んでいる本に、こんな美の定義がありました。

「美とは、客観的に基準が存在するわけではないが、
 一人一人、誰もがそう感じるはずだ、という 他者に開かれた確信」である。

 『言語表現法講義』(加藤典洋 著)

自分が美しく感じ、他人もそう感じるはずだというものを、自分の最善を尽くして、提示すること。

自分の確信を鍛えることと、それに沿うようにうまく伝えること。
の両方が必要とされる。

だけど、多分、人にモノを見せるとき、
自分が見せたいと思っている感情は、殆ど入れないくらいがちょうどいい。

人がモノを考え、つくる限り、自分というものは否が応でも入り込むので、
自分というフィルタを通るだけで、十分、自分のにおいがする。
それ以上、自分の混入したものは、自分臭すぎる。

モノを見せるときに、その繊細さ、気遣いある大胆さ、は必要だけど、自我なんて殆どいらない。
むしろ、それ自体に、自我がないからこそ、見てる側は入り込める。
見る側の、「依りシロ」として、モノが存在する。

自分の好きなダンサーや、シンガーは、ほとんど、巫女のようで、
彼女たちの身体は、見てる側の感情の依りシロとなる。

そのとき、自分の思いや血肉が彼女たちに流れ込むような無防備さ、ある種の快感がある。
なんだか、自分がここに生きている意味すら、どうでも良いと思ってしまう。

自分はひとりじゃない。
というか、ひとりひとりと分けて考え、
自分を認めてもらおうと、自我を出すことの滑稽さにあせる。
そこにあるのは、ただ、他者の依りシロたる自分。受け入れあうだけ。

「自分が、自分が」と言い合うまえに、
ただ、与えられた時間のうちに、今できることをやり続けるしかないと思うのです。



すこし、お知らせ。
以下、3月までの展示です。

10月6日(2009年)~3月1日(2010年)
日本科学未来館 3Fメディアラボ 「感覚回路採集図鑑」
安藤英由樹 // 渡邊淳司

2月2日~3月22日
東京都現代美術館 サイバーアーツジャパン─アルスエレクトロニカの30年
「blink to see __」 渡邊淳司+田畑哲稔+安藤英由樹
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# by w_junji | 2010-02-15 01:04