カテゴリ:自己紹介の代わり( 38 )

季節の変わり目

3月で、自分が3年半の間、身を捧げた
「科学技術振興機構 さきがけ研究」のプロジェクトが終わりました。

身を捧げたというのは大げさですが、
なんだか、そうも言いたいくらい、自分のなかではそれがすべてでした。

また、同じ3月、いままで自分の活動を見守ってくださった
自分の父親ともいえる、教授二人が退官。

友人も、研究をやめて就職したり、なんだか、いろんなものの節目。


ここ数年で、自分が見て、感じたもの。

なんとも、照れくさいもの言いですが、
世界は、僕らが感じられているものよりも、もっともっと美しい。
ひとは、世界のパズルのピース。
それは、時に、あたかも、はじめから用意されていたかのように、
組み合わされ、ハーモニーを奏でる。
それが、はまったときの感覚は、言葉にならない。

そんな美しさのカケラを少しでもたくさん、長い時間、見続けられるように、
自分の役割を、自分なりのやり方を見つけること。

いま、ここに、目の前にある大事なものから、はじめるしかない。
だけど、既にあってしまった自分、世界に対して私達は何ができるのだろう?

被験者という名の誰でもない人のデータを集め、平均して、統計をかけて、
誰でもない人間一般に対しての法則をみつけ、まとめだすこと?

一方では、個人個人には揺らぎがあって、
やっぱり、それがその人をその人たらしめていたりする。
そのことは、なかなか数字や言葉にならない。
だったら、それぞれが、それぞれのやり方で
そのことを体験し、再認識することならできるかもしれない。

インタフェース技術・メディア技術と呼ばれる体験装置によって
その人なりの世界の見方、感じ方の枠組みを再発見し、変えることができるような気がした。

自分の個人の体験や感覚を突き詰めれば突き詰めるほど、
そこには、物理的なものも知覚的なもの区別はなくなり、
自分ひとりの世界に入っていくものと思っていた。

だけど、だけど?

そこで、感じたものは、
自分は世界と繋がっている。
自分も、周りの人も世界の一部。

自分と他人という異なるものの中に一つの共通した何かを感じること。
生命、自然、ベクトル、フィールド、エネルギー、個の全へのつながりの確信。
なんて呼べばいいのかわからないけど、
自分のことを突き詰めているはずなのに、
それは、全体の中でのハーモニーのある一波長になっていることに気付かされる。

自分の妄想が他人の中にもあることを示す確信、共感。
誰でもない被験者から出てくるデータの解釈にだけでなく、
むしろ、個人の深い思いの連なりにこそ「法則」と呼ばれるものがあって、
それこそが、自分と世界との繋がりを教えてくれる。

それを信じて、大事に、丁寧に扱っていくこと。
そして、時に、鋭く、深く、向こう側まで。
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by w_junji | 2009-04-08 02:44 | 自己紹介の代わり

部屋の片付け

自分の周りを気遣いが行き渡った状態にすること。
いっこいっこの身の回りのことに心を込めること。

それだけで、とても心が安らか。

心は伝わるものなのだなぁ。とおもう。

過去の自分の思いが、現在の自分に。
現在の自分の思いは、未来の自分に。

自分の思いがあなたに。
あなたの思いは自分に。

心がどこに向いているかは、意識する間もなく伝わる。

それは、とても自然に。

私の心や、あなたの心で満たされた世界。
自分は世界の一部であるということを実感する。

私はここにもそこにも。
あなたもここにもそこにも。

自分はひとりではない。
嬉しいことがあれば、素直に人に伝え、
悲しいことがあれば、素直に涙を流す。

心は、どこかで誰かに伝わってゆくのだから。
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by w_junji | 2009-02-20 02:05 | 自己紹介の代わり

聴こえますか。

ヨーロッパから、無事帰国しました。
なんだか、まだ足がむくんでいる気がしますが、多分、健康です!

たくさん飛行機に乗って、たくさん移動して、いろんな人に会って。
ワークショップ、舞台、現代美術、メディアアート、ニューロサイエンス。
短い間に、とても、いろんな価値観と混ざり合って、
クリアになったこと、いい意味でわからなくなったこと、たくさんあります。

ただ、それを整理し、余韻を味わう暇もなく。。。
次の仕事は容赦なくやってきます。

今は、目の前のことに流され続けて、溺れそうな状態で、
息をしに水面に一生懸命顔を出しては沈み。その繰り返し。
自分の定点を確保する間もなく、次々に進んでいくのは、すごく不安で苦しい。
自分に余裕がないときは、夜も眠れない。

だけど、苦しいときに、「苦しいよう」って泣いて、
「明日もがんばる!」って笑って誰かと言いあえる。
それは、すごく大切なこと。

明日のことなんてわかんないけど、
それは、今の自分たちの背中をやさしく押してくれる。
今、がんばってる親友の話を聞くと、涙が出ちゃう。

まだ若いつもりだけど、最近、涙もろいのは、なんとも。
歳のせいでしょうか。。。
(疲れているだけであることを望みますが。。。)

ただ、歳をとると、それはそれで、世界の見え方が変わるのだなと思います。
時間が必要なこと、時間がたつとわかることがあるのだと思います。

人との間に信頼を作ることはもともと時間がかかる大変なこと。
人を待たせ、人を待つことの意味。。。
時間がかかること、それ自体の役割。

記憶は時間とともに変容し、
いつか、その人たちの声は思い出せなくなってしまうかもしれない。

でも、その人たちの存在のカケラ。
その向こうの物語がすっと心の記憶に入ってくる瞬間がある。
そして、それは日常の中にぽつんと落ちてる一瞬。
その人との物語が確かにあったことを、思い起こさせてくれる想像的知覚。

自分の中に、他人が確かにいるように、
たくさんの他人の中にも確かに自分がいる。
「自分はこれです、ここにいます。」って言う頑なさは何の力も持たない。

むしろ、「自分は、ここにも、そこにもいます。」
と言える透明さ、しなやかさを持ちたい。


聴こえますか。

「私は、ここにも、そこにもいます。」



ドイツのダンサー川口ゆいさん、慶応大学の坂倉杏介さん
をはじめとする皆さんととご一緒している 「Project HEREing Loss
(上の台詞は川口さんの言葉)

以下のパフォーマンス、ワークショップの申し込みは上記HPから

●Audio dance performance 「HEREing Loss -私の孵る場所-」

日時:12月26日(金)19:30
    12月27日(土)14:00/18:00
    12月28日(日)14:00

場所:横浜赤レンガ倉庫1号館

寝台席:3200円(各回20席)
普通席:3000円(各回70席)


●「HERE/HEAR 」いることと聴くことのワークショップ

日時:12月23日(祝)14:00/18:00
場所:慶応大学三田キャンパス東館6階

無料、各20名 申込締切12月10日



以下、今週末からの展示のお知らせ。

TECHTILE展
「SMOOTHNESS 触感←→オノマトペ ~触る・感じる・伝える~」

日時:2008 年 11 月 30 日 ~ 12 月 5 日 
    13:00 ~ 19:00 (11月30日のみ10:00~20:00)
会場:ZAIM 横浜創造界隈【ザイム】 別館 2Fホール
入場無料

・Touch the Invisibles:渡邊淳司、草地映介、安藤英由樹

  Touch the Invisiblesの世界では、”見る-触る”の関係性が実世界と異っています。
  実世界では見えるものに触ることで、触った感覚が得られます。
  しかし、この世界では”見えない”ものに触ることができ、
  見えるものには触ることができません。
  作品では、モニタの中をたくさんの人が歩いています。
  この人たちは影のみで実体が見えません。
  このとき、彼らを指でなぞると、指腹に”触った感覚”が返ってくるとともに実体が現れます。
  一方、実体が見えたときに、彼らに触っても触った感覚は返ってきません。
  つまり、Touch the Invisiblesの世界は、見えない人にのみ触ることができる世界です。

・「触 り心地の響きあい」ワークショップ:渡邊淳司、 早川智彦、松井茂

  私たち人間は、触覚を使った言葉を持っていませんが、
  触覚の抑揚(つまりは触り心地の変化)からも何らかのメッセージを
  受け取ることができるのではないでしょうか。
  本ワークショップでは、たくさんの触覚テクスチャ片を用意し、
  それらの触り心地を分類し、触覚のメッセージを作ってみました。
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by w_junji | 2008-11-25 05:58 | 自己紹介の代わり

Ars Electronica 報告(3) Siren

今回のアルス展示作品で一番気に入ったのが
Siren by Ray Lee (UK)

やっていることは単純で、
たくさんの、両端にスピーカがつけられた棒を回転させているだけ。

彼は展示をパフォーマンス形式で見せています。
まず、スピーカから単音を出していきます。
スピーカからの音はそれぞれ微妙に高さが違っていて、
複数のスピーカからの音は和音となります。
そして、そのスピーカ群をひとつずつ回転させはじめます。
スピーカが回転すると、「ウーン」という単音が、
ドップラー効果によって「ウィ~ン」と変化を持ち始めます。
そして、多くのスピーカが回転することで、その和音は様々に変容します。
さらに、スピーカは方向選択性を持っているので、
聞いている位置によってその音は様変わりします。
(HPでパフォーマンスの様子が見られます。)

一つ一つの音は単純ですが、集まった響きが織り成すハーモニーが素晴らしい。
機械によって紡ぎだされた雅楽のよう。
その荘厳な空間自体が共鳴していました。

空海の「五大皆有響(ごだいにみなひびきあり)」を地で行く展示です。
五大(地・水・火・風・空という環境世界)は単に視覚的に存在しているのではなく
その存在自体は響きであり、触覚的に交感、共鳴している。

それぞれの音は、一人一人の人間とも思える。
こんな人と人のハーモニーがある世界に生きられたら素敵だ。

パフォーマンスの時間は40分でしたが、あっという間でした。
不覚にも泣いてしまった。そして、すこし、悔しかった。

たくさんの回転スピーカ。
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スピーカの調整をする Ray Lee。かっこいい。
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by w_junji | 2007-09-24 00:48 | 自己紹介の代わり

ティアラ

もう、東京では終わってしまいましたが、ティアラ展すごくよかったです。

自分は宝石好きというわけではないので、
ネックレスとか指輪にはグッと来ないのですが、
ティアラ展のポスターを目にしたとき、一瞬で心奪われました。

宝石がすごいとか、王家の権威の象徴だとかそういうのじゃなくて、
一言で言うと、ティアラって人間としてのその人の輝きを象徴するもののような気がします。

作る側の創意工夫や思い。
人間の頭につけること。
特別なときにしかつけられないこと。
つける側の誇りやその人の輝き。
その人を包んで守ってくれる感じ。

そういういろいろな思いが伝わってくるように思えます。

宝石とか装飾がすごいだけならただの頭飾り。
でも、男の子が好きな娘のために
川原の花で編んだ頭飾りはティアラ。

ティアラをつけるという行為は、
世界を受け入れ、自分のなかの輝きを引き出す祈りの儀式のような気がします。
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by w_junji | 2007-03-25 21:39 | 自己紹介の代わり

しなやかであるために

「自分に何が足りない」かではなく、「自分に何が必要か」と考えること。

欲望を「消費」するのではなく、それを「認め伝える」こと。

身の丈の欲望と、シンプルだけど必要なもののある生活。

自分の意思で自分を慈しむことが、他者を愛する第一歩。

気の進まないことはやらない。最終的に自分を苦しめるのは自分。

やることは、丁寧に、思いを込めて。

世界の一部である感覚。世界が自分の家だと思ったら、世界中のものが愛しく見えてくる。
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by w_junji | 2007-01-24 01:10 | 自己紹介の代わり

踊るように、演じるように。

家族を含め、誰かと生きるというのは

「一緒に滑らかなダンスをするのといっしょで、
お互いの行為が受け入れられるように自分の行為を調和させること」

相手の動きを感じ、それにあわせて自分の動きを調整すること。

一緒にいたいということのためなら、いかようなものでも調和させる。
かける言葉だったり、表情だったり、感情そのものですら。

心があってそれを伝えるというよりも、
行為を調和させていくなかで、二人のあいだに心ができてくるような感覚なのかも。

そして、ここには、物語を演じている役者の私と演出家の私の、2人の私がいる。

演出家の私からみると、役者の私の少し先の未来を演出している。
だから、役者は演出家にとっての過去を実感しながら生きることになる。
そうすると、矛盾かもしれませんが、現在は必然の過去になるの。
そうすれば、迷いもなくなる。


こんなことを書いている私は、
なんだか、お屠蘇の飲みすぎでしょうか。
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by w_junji | 2007-01-02 01:09 | 自己紹介の代わり

Feel alive

なんだか、ぼけーっとできる時間が久しぶりにとれて、ボーっとしてます。

何をするわけでなくとも、
「はい。私は元気です。皆さんはいかがですか?」っていえるだけでよくって、
それぞれが、ふつうに生活して、
お互い「自分は元気だよ!」って発信し続けるだけで、お互いを元気付けられる。

世の中シンプルなはずなんだけど、
いつの間にかいろんなことに巻き込まれ、疲れ果て、いろんなものが見えなくなってしまう。

自分の好きなものを、自分なりなやり方で集めて、交換する。
それは、モノかもしれないし、オモイかもしれない。

毎朝、紅茶を入れるときの、紅茶がコップに注がれる、お湯の積層していく音が好き。
自分で作ったものを、自分で食べるときの「うーん、おいしいかも~」っていう感じ。
好きな音楽を聴いて、踊っているときの身体が溶けていくような感じ。
星空や月を見たときの、きれいなものに囲まれているという実感。
お茶やバレイのような、型の中でどう思いを伝えるかという行為。

そういう好きなものを集め、共有する。
今日はぼくの好きなことをしたから、明日はあなたの好きなことしよう。
そんな連なりのなかで、時に苦しみ、ともに笑い合う。

それだけなんだとおもう。
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by w_junji | 2006-10-10 02:41 | 自己紹介の代わり

シアワセのための物語作り

今ロンドンです。
なんだか、自分がいつもより笑っている気がします。

先日、ロンドン大学のエライ先生と打ち合わせをしてきました。
その日はあいにくの雨でした。

予定の時間より少し早く着いて、オフィスの待合室で待っていると、
背の高い英国紳士が、ずぶ濡れになってやってきました
「モーニン。ジュンジ。自転車で来たらひどく濡れてしまったよ。ガッハハ。」

ガッハハ。ってちょっと下品な笑いですよ先生。
とか思いながらも、
「ハハハ。そうですね先生。早く着替えてくださいよ。」

なんてやりとりがありました。

そのとき自分は、笑いながら
そっかぁ。先生は「ギャー雨だぁ」とか思いながら
自転車を飛ばしてきてくれたんだなぁ。とか勝手に想像してしまいました。

日本だったら、深刻に「天気が悪くてねぇ」なんて話をまじめにしてたかもしれませんが、
こっちだったら、「ガッハハ。」ですよ。

ここにいると、なんだかちょっとしたことにも物語があるんですよ。


全てのことに、ちょっとした遊びというか、
深刻さとの間に一歩引いて、それを受け止める余裕があるような気がします。


人とのかかわりって物語。
ちょっと引いて何でも楽しんじゃう、あえて物語をつくるという意味では、
少し演じているのかもしれません。

でも、その演じ方は、すごく即興的。
相手の言葉にあわせたユーモア、即座に反応する瞬発力
相手を感じる洞察力、感情を交感する表現力。
それらがないとできません。

多分、ぼくら日本人はもう少し演じてもよいのだと思います。
生活にちょっとした物語を生み出す、ちょっとしたアクション。

そして、演じていることをわかった上で、いろいろ楽しんじゃう。
その物語の中での自分を楽しむうちに
だんだん、冷静に見ている自分が消えてしまうかもしれない。

でも、それはそれでよくって、
演じているときしか起きない狂気もあるわけだし(恋愛とか?)、
その瞬間の一体感、自我の消滅、知らない自分との出会いはすばらしいこと。

例えば、自分が講演しているときにしゃべっていることなんて、
普段考えたこともないことが理路整然とでてきたりするもので、
演じている中からでてくる予期しない物語は新たな気付きを与えてくれます。


物語は豊かな生活、シアワセのために必要なもの。
そのための、しなやかさ、洞察力、行動力を日々磨くこと。
そして、物語のなかで演じている自分と、それを見ている観客としての自分を
行ったりたり来たりする体力、精神的強度を持つこと。
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by w_junji | 2006-09-23 18:38 | 自己紹介の代わり

そこなのです。

○そこ1:あなたのシアワセは何なのさ?

なんかいろいろ複雑に見えるけど、
結局は、それだけのことなのだと思う。

あなたにとって、何が大事で、何がなくなると生きていけなくなるのか?
自分にとってあなたは何で、あなたにとって自分は何なのか?

大事なことってシンプルでストレート。
「ほんとにこれがいいと思っているの?」と誰に聞かれても
迷いなく進んでいける。
それだけ、直感的だし、よく考えたこと。

ぼくにとって人の存在感というのは、
その人が何が好きで、何を大事にしているのか?
その思いの質量だったり、エッジさが大きい。

何をやっているか?ではなく、
どう思っているか?どういう関係を歩んできたか。
他人や世界とのインタフェースは物語でしかないし、
その物語の向こうにあるメッセージがすべて。


○そこ2:向こうの世界のリアリティ

日本にいると、なんだか世界と自分の生活が切り離されたように感じます。
ロンドンにいたときには、社会の中で起こることは
どこか、自分の生活とつながっている気がしていました。
実際、自分の命と関係することもあったのですが、
目の前のテレビのニュースでさえ、常に自分と関係付けられていた気がします。

日本にいると、なぜか、
日本の社会というどこか他の国の出来事を見たり聞いたりしている気がします。
どうしてこうも世界に対する切実さがなくなってしまうのでしょうか?
どうしてこうも世界で起こっていることに対する感度が下がるのか?


話はそれるかもしれませんが、
昔(たとえば、平安時代)の人の生活にはいろんなものがリアルに存在していた気がします。
今って、物理的にあるものにしかリアリティを感じない。
なんて貧しい。
昔の人は怨霊だって、妖精だって本気で怖がっていた。
物理的にいるから怖くて、物理的にいないから怖くないってなんなのでしょう。
物理的存在の有無じゃなくて、それを感じられるかどうかだと思うのです。

物理的には目の前でそのことはおきていないかもしれない。
でも、向こうにあることをどれだけリアルに感じられるか?
そして、そこで自分が何ができるか。
切実さと想像力の問題。

たまたま、昔の公家の日記について知る機会がありました。
見えない世界に対しても、生々しく、ざらついた毎日を送っていたのがわかります。

そういう想像力って、おそらく、
今、ぼくらが海の向こうで起こっている悲しいことややるせないことを
想像する力にもつながるのだと思うし、
なんだか日本にいるとその力が弱まっていく感じがするのが寂しい。

ほんとは、もっと自然な力のはずなのに。
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by w_junji | 2006-09-14 22:42 | 自己紹介の代わり