IE9ピン留め
一年がはじまって,またお休み
年の瀬のお休みが過ぎ,日常が始まったと思ったら,あっというまにお休み.

正しいもの,善いもの,美しいもの,それらは全て人の世の日常にはない.

日常から,ちょっと離れたところにがんばって行かないと見つからない.
実験したり,修行したり,大自然の中にいったりとか大変なことしないとたどり着かない.

正しいもの,善いもの,美しいものを
がんばって見つけたり,新しく作り出すのも重要だけど,
日常のなかで,人や自分とのつながりの仲で意味づけていくことが
できればよいのでは.と思います.

もう,絶対に正しい,善い,美しいものなどなくてもよいかもしれない.

世界にはもともとあるものしかなくて,人間の側が急に変わっている.
人とのつながりのなかで,
世界や人間の真善美を映し出す鏡をつくっていくことができればと思います.

今年の抱負.
# by w_junji | 2012-01-07 22:54 | Trackback
Poetry of Motion
Ars Electronica export exhibition in Osaka
"Poetry of Motion"

大阪梅田のBreeze Breeze というショッピングビルでの一般向け展示です.

特に展示を見に来たわけではない人にとって,どう見えるでしょうか.
展示として,見てくださいと環境の中で主張するのではなく
どちらかというと,環境に溶け込みながらも,何らかの方法でそこを通る人に作用する.
体験型の展示,つまり,見ただけでは意味がわからないものは,
いるだけでは,溶けてなくなってしまう.
コミュニケーションを通してつながるしかない.

Heartbeat Picnic
Junji Watanabe, Yui Kawaguchi, Kyosuke Sakakura, Hideyuki Ando
# by w_junji | 2011-12-12 00:34 | Trackback
見方
モネやルノアールの絵を片目をつぶって見ると,
絵の中のイメージが世界としての輪郭をもって立体的に見え出します.

人間の目は,少し横にずれて正面に向いて二つあるので,
両目で物体を見ると,右目と左目に入る網膜像にはほんの少しずれがあります.
そして,脳はそれを手がかりに奥行きを知覚します.

絵を見るときでも,その手がかりのおかげで
壁から絵の額縁がほんの少し前に出ているのを明確に知覚することができます.
ただし,それはデメリットもあって,
キャンバスという平面の上に,絵の具が置かれていることを強調してしまいます.

しかし,片目をつぶったときには,そのような奥行きの手がかりを使うことはできません.
額縁も,絵も網膜上では奥行き情報なく存在し,
そこから,絵の中にある情報から世界を再構成するしかないのです.
そんなとき,モネやルノアールの絵は脳の中に何か特別の世界を作り出すようです.

見方を変えることによって,絵の中に潜んでいた別の世界にアクセスできる.


今の展示,目を動かしたり,携帯カメラを振ると,光の中に現れる歌舞伎町らしからぬものたち.

歌舞伎町アートサイト(12月3日(土)まで)

「Cabinet of curiosities」
安藤 英由樹+渡邊 淳司+田畑 哲稔+Maria Adriana Verdaasdonk


雨ざらしです.

新宿という雑食な感じ.
新宿にないものを雑食に集めたコンテンツ.
Cabinet of curiositiesとは博物館学などで,
定義できない様々なものを集めた箱のことです.
# by w_junji | 2011-11-29 00:46 | Trackback
onomatopoeia
「おの まと ぴーあ」 と発音するんですが,
英語で発表するのがとても恥ずかしい.

そこそこ長くオノマトペのこと研究したりしたのですが,
しゃべってみないとわからないことがあった.

そうなってみないとわからないこととか,最近多い.
パネルディスカッションで,思ってもみないことに怒っていたり.

声,身体,直感.それは,とても論理的に反応するのだと思う.
「わたし」にとって何が大事か.
よくよく考えてみると,知らないのは「わたし」の意識だけ.


大阪大学総合学術博物館 第14回企画展

脳の中の「わたし」と情報の中の<私>
―五感を揺るがす摩訶不思議なメディア技術―

会  期:2011年10月25日(火)~2012年 2月 4日(土)
       10:30~17:00 入場無料
       日祝および年末年始(12月29日~1月3日)休館
       ただし11月3日(木・祝),11月6日(日)は開館

会  場:大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館


展示企画・制作:安藤英由樹
(大阪大学大学院情報科学研究科バイオ情報工学専攻・准教授)

展示企画・制作協力
渡邊淳司(NTT コミュニケーション科学基礎研究所)
藤木淳(国際メディア研究財団/科学技術振興機構さきがけ研究員)

展示企画・制作補助
前田 真由子,鈴木 寛和,嘉永 真未


現代社会では、自分の身体や思考、行動等さまざまなものが情報化される
とともに、「わたし」の知らぬ間に情報世界の中で新たな<私>が形成され
ています。たとえば、携帯電話でメールを打つときの“かな漢字変換予測機能”は、
使用者の思考の癖が携帯電話の情報空間に転写されたものだといえます。
そして、それが提示する予測結果は、時に今まで気付かなかった「わたし」の
思考様式をも明らかにし、もはや自分とは違う誰か(もうひとりの<私>)のもので
あるような気すらしてきます。
本展覧会では、脳の中にある「わたし」と、情報メディア技術によって生じた<私>の
新しいあり方を、人間科学と情報科学の融合研究の立場から捉えなおすことを試みます。
脳の中の「わたし」と、それがメディア技術によって再び提示された情報の中の<私>。
「わたし」と<私>は異なる存在として、この会場に立ち現れることとなります。
さあ、これからあなたは「わたし」と<私>の新しい人間関係を築かなくてはなりません。
それは果たして、楽しいものになるのか、苦しいものになるのか。私(安藤)の想像は止みません。


本展覧会は、脳の中の「わたし」と情報の中の<私>の関係によって四つのエリアに分けられています。

“情報化される「わたし」”
このエリアでは、脳の中の「わたし」が生み出す思考や行動の記録を視覚化しています。
それを見ることで、自分自身の思考や生活の様式が改めて意識されることでしょう。

●親指の記憶(2011):前田真由子、鈴木寛和、嘉永真未
  (協力:有元梨沙、鵜飼智子、竹村早紀、田中茉希子、中野悠、畑井恵、松岡佳世、松延徹人、守安勇)

●A day in the life(2011):藤木 淳、渡邊淳司 
  (協力:株式会社 ビデオリサーチ、藤木寛子)


“情報に消える「わたし」”
このエリアでは、画面に映し出されるたくさんの人の中から、自分と関係付けられた人を
見つけることを試みます。「わたし」が情報化されるときには、誰もが区別なく記録されます。
一旦、匿名の存在となった〈私〉と「わたし」の関係を証明するものは、どこにもありません。

●P055E5510N(2011):藤木 淳

●Parallel Lives(2010):安藤英由樹、草地映介、渡邊淳司


“何かになる「わたし」”
このエリアでは、「わたし」の顔がパーツに分けられて提示されたり、関係のないものに貼りついてしまいます。もともとは「わたし」の一部であったものが、いつの間にか「わたし」ではないものになってしまう違和感を体験してください。

●Eye remember you(2011):安藤英由樹、吉田知史、渡邊淳司

●宿り顔(2011):安藤英由樹、渡邊淳司、前川 聡(独立行政法人 情報通信研究機構)、吉田俊介(同)
  (協力:杉崎有)

“「わたし」から生まれる<私>”
最後のエリアでは、「わたし」の一部である心音がいつの間にか映像の中の人の心音と重なり合ったり、
「わたし」の影=<私>が意思を持って動き出します。
「わたし」から、情報メディアを通して<私>が生まれます。

●心音移入(2010):安藤英由樹、渡邊淳司、佐藤雅彦(東京藝術大学)
  (協力:関口台町小学校、東京外国語大学剣道部、近藤大祐)

●影法師(2011):藤木 淳、鈴田 健、渡邊淳司、安藤英由樹
  (協力:前田太郎、飯塚博幸)


協力:南方熊楠顕彰館
# by w_junji | 2011-11-01 01:05 | Trackback
発症する言葉
ある日,送られてきたプログラムを実行すると,
CPUが異常に熱くなり
HDが音を立てて回転し始めた.

次の日,送られてきた手紙を読むと,
脳が異常な速さで考えをめぐらし,
心臓が音を立てて鳴り始めた.


ある日,聞こえた音を声に出したら,
何を言っているか意味はわからなかったけれど,
なぜか,うれしくなった.

次の日,うれしくなったときに出た声を
人にも投げかけてみようと思った.
# by w_junji | 2011-10-07 23:22 | Trackback
数の触感
共感覚の方で数字(色はついてない)を見ると
数字ごとに違った色がついて見えるという人がいます.

数字の文字の形によるのではなく
数という概念に対してこのようなことが起こるようです.

もし,数に触覚の質感があるのなら,
1は,ポコっとしている.
2は,サクっとしている.
3は,ピンとしている.
4は,ネバっとしている.
5は,フワっとしている.
など,でしょうか.

数の質感があるのなら,数が存在している感覚,実感もあってよいかもしれない.
「ああ,3てこんな感じですよね.」
という感覚を得るためには,どうすればよいのだろう...


最近の一般向け文章です.
・・・
触れる感覚の質感・実感に着目したコミュニケーション
渡邊 淳司

近年の電子機器やゲームでは、触覚に対する情報提示が注目を浴びています。
しかし私たちは、触覚を通じて情報を認識するだけでなく、触覚を通じてあらゆる
ものに豊かな質感を感じ、それが環境に実在することを確認しています。
リンク
# by w_junji | 2011-09-25 22:54 | Trackback
Ars Electronica 2011 at OKcenter
オーストリアのリンツで行われているアルスエレクトロニカでの展示

Heartbeat Picnic (心臓ピクニック)
Junji Watanabe, Yui Kawaguchi, Kyosuke Sakakura, Hideyuki Ando

ピクニックバッグから,聴診器と黒い箱が出ています.
聴診器を胸につけると,黒い箱が自分の心臓の拍動にあわせて振動し始めます.

普段,知っているけど,感じることのない「自分が生きてます」という感覚を
手の中にある箱を通じて感じる体験です.
自分の心臓の動きを手で感じたり,親しい人と交換したり.
ピクニックバッグを持って野外で運動したり,お酒を飲んだり,そんなことをしながら体験.


心臓ピクニックで生じる感覚は,
言葉のやり取りと違って,身体から引き出された直の感覚.
「私は,ただそこに存在しています」という否定のないコミュニケーションの始まり方.

アルスエレクトロニカは,展示だけでなくいろいろなパフォーマンスやカンファレンスが行われます.
落雷してます(TESLA ORCHESTRA).


それと,こちら受賞させていただきました.
Prix Ars Electronica 2011 Interactive Art 部門 Honorary Mentions (入賞?)

empathetic heartbeat
Hideyuki Ando, Junji Watanabe, Masahiko Sato (JP)
# by w_junji | 2011-09-05 20:35
YCAMシンポジウム
山口県でシンポジウムに参加します.

テーマは触感です.

話のタイトルは

「触れる感覚の言葉,触れる感覚による言葉」

感覚の「連想関係」(イメージの結びつき)や「連辞関係」(文法)
について話ができればと思います.


そういえば,「空海と密教美術展」やってます.
今回の話とも関連する言葉.


五大皆有響
十界具言語
六塵悉文字
法身是実相

五大:地・水・火・風・空のからなる森羅万象
十界:地獄・餓鬼・修羅・人・天・声聞・緑覚・菩薩・仏の世界
六塵:色・声・香・味・触・法という人間が認識する感覚

空海『声字実相義』より

・・・・・・
「TECHTILEという考え方:触感を表現する・触感で表現する」

2011-08-21(日)14:00-18:00
(関連展示:13:00-19:30)

場所 : YCAM(山口情報芸術センター)スタジオA

パネリスト:
名和晃平(彫刻家)
安藤洋子(ダンサー/ザ・フォーサイス・カンパニー)
渡邊淳司(研究者/NTTコミュニケーション科学基礎研究所リサーチスペシャリスト)
佐野明人(研究者/名古屋工業大学大学院工学研究科教授)
# by w_junji | 2011-08-18 00:49 | Trackback
ワークショップ 「文章の読み跡」
自分は,レゴを組み立てるように文章を書く
のではなく,彫刻を削るように文章を書く派です.

とりあえず,関連しそうなことをばーっとワードファイルに入れて
それを組み替えたり,なかの言葉をきっかけにあらぬ方向に広げたりします.

冷蔵庫の中のものを眺めて,そのなかにあるものを組み替え,
工夫して何かを作るような感じ.

読むときは,ひたすら順番どおり,後戻りはしません.

出されたご飯は出された順に食べます.
こちらで勝手にまぜたり,残したりしないで,
そのまま口に入れ,噛み,歯ごたえや味の余韻を感じます.

読むことと食べることは似ているような.


///////////////////////////////////////
佐世保市博物館島瀬美術センター
平成23年度企画展「感じる文學 -動く・触る・薫る-」

★ワークショップ 「文章の読み跡」★

平成23年8月20日(土) 13:00~(約2時間程度)

文章の中にある文字の見えかたをいつもと少し変えてみることで、
文章を読むときに感じる「抑揚や調子」を、より深く体感できるワークショップです。

対象:中学生以上

講師:丸谷和史+渡邊淳司
(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)

場所:佐世保市博物館島瀬美術センター中2階ギャラリー
# by w_junji | 2011-08-13 21:55 | Trackback
文學展
佐世保はバーガー,アジ,イカの街です.

2011年7月15日(金)~9月4日(日)
佐世保市博物館島瀬美術センター
平成23年度企画展「感じる文學 -動く・触る・薫る-」

Saccade-based Display: "meta-literature"

安藤英由樹
渡邊淳司
田畑哲稔
マリア・アドリアナ・ヴェルダーズドンク


表示されている文字は佐世保で有名な以下の詩をモチーフにしています.

『西海讃歌』

原詩 藤浦洸
作曲 團伊玖磨

空いっぱいに 空があるように

海いっぱいに 海があるように

人よ 人よ 心いっぱいに

美しい心を持って

この空を この海を この土を 愛そう・・・

# by w_junji | 2011-07-15 17:28 | Trackback
淡路島
コンクリート打ちっぱなしの建築って
自然の中にあるほうが美しいように思います.
古代遺跡のようです.

「淡路島夢舞台」という場所はもっと知られてよい場所.
ここには,海,空,緑,愛,住,と100個の花壇があります.



以下,今更ながらお知らせ.

2011年6月11日(土)~2013年春
日本科学未来館3F 零壱庵-デバイスアート・コレクション

メディアラボ第1期から第8期までの3年間に展示した作品の中から
代表的な7作品をメディアラボでの展示期間中に得られた研究成果と共に展示します。

「サッカード・ディスプレイ: blink to see__」
安藤英由樹(感覚-運動系インタフェース研究者、大阪大学大学 准教授)
渡邊淳司(知覚研究者、NTTコミュニケーション科学基礎研究所)
田畑哲稔(映像作家)
マリア・アドリアナ・ヴェルダーズドンク(アーティスト、研究者)


# by w_junji | 2011-07-01 00:10 | Trackback
爪の先の10000倍はどのくらい?
『数字のモノサシ』 (大和書房) 寄藤 文平 著

という本の中に,10000倍を身体を通して理解するという試みが書いてあります.


爪の先の白い部分を「1」とすると,

爪全体は「10」

指全体は「100」

手全体は「1000」

両手を広げて右手から左手までが「10000」


・このクジは10000人に1人の割合で当たります.

・3月には6月の10000倍の放射能が漏れました.

などは,爪の先に対して両手の端から端までの割合.


日本の人口(約1億:10000x1万)を右手から左手だとするとと,
東京都の人口(約1000万:1000x1万)は手一つ.
世田谷区の人口(約100万人:100x1万)は指一つ.
自衛隊の人数(約25万:25x1万)は指の第一関節からさきくらい.
東京ドーム収容人数(約5万人:5x1万)爪の半分.

*日本の人口を両手間に当てはめるやり方だと,そのまま「万」を抜くだけで適用可能.

日本では,一年に約100万人(指一本)の方が亡くなります.
そのうち
交通事故で亡くなる方は約5千人(指一本のうち爪の先の半分),
自殺者は約3万人(指一本のうち爪の1/3).


とか,そういうことに対して,

その数字がどれほどのものか,

記号としてなんとなくわかった気になって,イメージで「多い」,「少ない」と判断する前に,

自分の身体であったり,実感を持って理解できるスケールに落として

正確に実態を把握する必要があると思われ.
# by w_junji | 2011-06-26 15:16 | Trackback
眠れず
誰かの気持ちになって考える.

1:その人の顔のアップを想像する(1人称)
2:その人から見た世界を想像する(2人称)
3:遠くから引いて,自分とその人が入った絵を描く(3人称)


応援する.

1:きっと誰もが”終わり”と感じていた.
2:でも,”続き”を示した.
3:むしろ,それは”始まり”だった.

そんな人を応援したい.


つなぐ.

1:世界のルールの違いを知る.
2:端となり,笑いによって結ぶ.
3:道化なる愚か者ゆえ許される.


コメントする.

1:別の新しい意味付けをする.
2:立体感が増す.
3:知らない人にとって価値が出る.
# by w_junji | 2011-05-21 05:18 | Trackback
日常ってどこにある
地震や放射能が生活のなかに現れ,もう一ヶ月以上たちましたが,
不思議なことに,危機の中でも,なんとなく,日常が立ち上がってくる.

被災地の方々に比べれば,関東にいる自分は
あまりにもいつもどおりかもしれないですが,
日に10回を超える地震や,身の回りにシーベルトという気にすべき単位ができたり,
2ヶ月前には考えられなかったことです.

今では,家具を買うのに耐震用の部品を一緒に買ったり,
この野菜の産地はどこかしら?など自然に考えてしまう.
それが,日常になりつつあります.

人は,状況が変わっても生活の中にルールを作り出し,
それにのっとって生きていくようにできている.
毎日,太陽は昇るし,日が暮れる.
朝になれば,いつもの手順で出勤する.
夜になれば,いつもの場所で眠りにつく.

だけど,一方で,非常時には,
日常を続けてたものを何のためらいもなく壊さなければいけない.
一回,ルールを捨てて,信じていたものを疑い,
もう一度,状況にあったルールを作り直す.
そんなときは,身体が反応するままに判断するとき.
時間とタイミングが問題になるから.

世界の中で,自分の感覚で知ることができるものはそんなに多くない.
ほとんどは記号の情報としてやってくる.
同じことを繰り返す日常は,記号化されているほうがいろいろ効率がよい.
だけど,そればっかりだと,
非日常になったとき,記号に対して身体が反応する瞬発力が衰える.

そんなバランスをどうやって維持していくか.
スポーツクラブに通って身体を鍛えるように,
記号に対して,自身との関係性を適切に想像する筋力を鍛える方法があるでしょうか.
# by w_junji | 2011-04-19 12:27
この状況のなかで
事態収集に数ヶ月~年レベルが必要な福島原発のことを考えると
関東圏で生活をしている私たちは
その生活スタイル自体を変えなければいけない気がします.

いつもより考えることが多くなる.
洗濯物を外に干さない.
外出するときはマスクをする.
家に入るのに塵を落としてから入る.
外国産の食品をとったり,ミネラルウォーターを飲んだり.
そのうち出るであろう放射能予報を見ながら,自身でその日の行動を考えたり.

これら全てを行うべきか,何を行わなくてもよいのか.
食事,空気のリスクを把握して,自身でどうやって管理していくか.

考えすぎといわれるかもしれませんが,
特に,お子さんが小さい家庭は気をつけすぎるくらいがちょうどよいし,
杞憂であれば,それに越したことはありません.

*200キロ以上離れた福島から,直接の放射線は殆ど到達しませんが,
 塵のような放射性物質が風にのって飛んできます.
 この飛んできた放射性物質から出される放射線の身体への影響が
 各地で計測されているものなのですが,それだけでなく,
 この物質を体内に吸い込んだり,それがついたものを食べたり飲んだりすると
 体内に蓄積されて距離ゼロで放射線が身体に影響を与えます
 (ただし,程度にもよりますが,時間とともに自然治癒していくそうです).
 物質の種類によって,どこに影響するかなど違いますし,
 この影響は,概して,小さい子どものほうが大きいため
 現在の状況だと,子どもさんは全てをやったほうがよいと自分は思います.


また,原発というリスクを処理しきれないということが明らかになってしまった今,
日本がエネルギーをどうやって得ていくかにしても,変わることと思います.
たとえば,中央集権的に電気を管理するだけでなく,
各家がモニタリングしながら,それぞれ消費量を20%減らす.
おそらく,それができるだけで計画停電はなくなるのでしょうし.

結局,どれだけのリスクをとって,自身の生活を送り,
それをモニタリングしながら柔軟に変更していく.
それを誰かに頼るのではなく,自身でしていかなければならない.

誰かが大丈夫だといったから安心し,ダメだといったら慌てふためく,
そんな生き方はもうできない気がします.
# by w_junji | 2011-03-27 23:02 | Trackback
地図と暦を超えて
つい一時間前のバーレーンのデモの様子です(一部見れないものもあり).

この動画が表示されるとき,
今から何分前という録画からの経過時間と録画された場所の地図が一緒に出てきます.

***

私たちの心の中は,空間と時間がはじめにあって,
その上にイベントが記憶されるわけではないように思う.

心にイベントがいくつも生じることで,その関係性が空間と時間を作り出す.
すべてが同じ色で,何も変わらない世界しかなかったとしたら,
そこに空間や時間の意識は生じるだろうか.

心に地図や暦は,はじめから存在しない.
あるのは,「私」の「今」「ここ」と,そしてその過去の記憶との距離. 

上の動画を見ていると,時間も,地図も,もちろん,撮影の視点も
撮影者「私」の「今」「ここ」を中心とした基準で表示されている.

どこかの建物の上から撮影されていたり,
16時40分(バーレーン時間)やグリニッジの時間表示,
よく見る世界地図でのバーレーンの場所で表示されていたら,
あの動画は「いつか」「どこか」の記録にしかならない気がする.

撮影者「私」の記憶であり,その世界の描写である動画は,
その視点や時空の起点を,観察者「私」と重ねることで,
「私」の時間や空間の一部にもなっている.
# by w_junji | 2011-02-15 00:49 | Trackback
われわれはあまりに個(個体・個人)にとらわれすぎていないか
『ネットとリアルのあいだ』(西垣通2009)のなかで
情報技術によって個々人が大きな社会システムの中に匿名の人間として組み入れられ
個としての生きる力を個人の中にしか求められなくなってしまった
現在の状況を氏が語るなかで出てきた言葉です.

違うところで,何かがつながったような気がしました.

チュニジア・エジプトの革命の生の情報を日本語に翻訳して
Twitterで配信しているモーリー・ロバートソンさんさんという方の文章です.
長いですが,引用させていただきます.

「価値観の違う人たちがそれぞれ、幸せを追求するためには同居・共生をしなくてはならない。
 しかし現存のルールはもしかすると過去の植民地支配、資本主義、グローバリズムなどの
 しがらみに引きずられ、けして良い解決策を生み出すことはできず、また新たな「テロとの戦争」
 という無限の争いを引き起こすという構造になっているのかもしれない。
 つまり価値観に世界性がないのです。」
「それを乗り越えて、お互いに違う、だけど限定的には分かり合える、
 そして共鳴し合える部分を楽しむことができれば、それが普遍性を帯び、
 固有性・単一性と多様性の間にブリッジを造れるのではないか?」


魚や鳥の群れの個々の個体は,どこへ向かっているのか,全体がどんな形をしているか
その全貌は知らないかもしれない.
だけど,あたかも群れ全体がひとつの意思を持つように動くことができる.

人間の身体的に感じる力は動物よりも劣っているかもしれない.
しかし,現在,私たち人間が手にしている技術は,
個人としての感受性を
遠くの他人へだけでなく,多くの人の集まりの中から生まれる全体の意思や,
人間全体の意思へ,広げることができるのではないのだろうか.


参考文献
Groove Japan(モーリーさんのサイト)http://groovejapan.jp/videos/04/
エジプトの映像 http://www.youtube.com/watch?v=w3FQXYdyHCg
# by w_junji | 2011-02-09 01:22 | Trackback
宮崎とエジプト
2011年1月29日~2月13日
文化庁メディア芸術祭 巡回企画展  @みやざきアートセンター 
「Parallel Lives」 安藤英由樹,草地映介,渡邊淳司

エジプトの革命の様子(英語)

私たちの感覚は,どこまで,想像力を広げられるか.
# by w_junji | 2011-01-29 23:01 | Trackback
インド
今年の仕事始めは,インドでの展示でした.

展示の中で最も聞かれたことは

「その技術は何に使えるの?応用は?製品になっているの?」

技術は人の心のために使うものには成りえないのでしょうか?

インドの人にとって心の豊かさとはどのように実現されるものなのでしょうか?

技術を開発する人が
「それで何ができる」という機能についてだけでなく,
それが私たちの生活,社会にとって「どんな意味があるのか」という
技術の価値について問いかける試みは,常に技術開発と共に行われることのように思います.


# by w_junji | 2011-01-17 01:47 | Trackback
MOON
以下、曽田正人 『MOON』7巻より
( 『MOON』は宮本昴というダンサーを主人公としたバレエのダンスマンガ)

「すごい技を使って技ではない何かを伝える。そういう世界でわたしは生きたいのです。」

「わたしの一生は、バレエの真理をつかむためにある。」

「存在感(エネルギー)など無い。ただ、あるがまま、”美しいだけ”のもの。」


サラっとマンガの中で出てくる台詞なのに、とっても心をつかまれる。
「技」を「研究」にして、「バレエ」を「人間・世界」に変えたら。


「すごい研究をして研究ではない何かを伝える。そういう世界でわたしは生きたいのです。」

「わたしの一生は、人間・世界の真理をつかむためにある。」

「存在感など無い。ただ、あるがまま、”世界の理”だけ。」


このマンガ、もともと『昴』というタイトルだったのに、休載後『MOON』に変更されました。

太陽のように外へ外へ自分を表現することは,
結局のところ、人の心を動かすことにはつながらないように思う。

むしろ、ただただ、月のようにそこにあるだけ。

私たちは月を見るとき、太陽の光を見ているのか、それとも月を見ているのか。

もし、真理という見えない光があるのならば、
それは何かを映すことでのみ感じることができる。

もし人間や世界に真理というものがあるのなら、
芸術家や研究者はその光を映し出す月となることが仕事のような気がします。
# by w_junji | 2010-12-29 02:37 | Trackback
北風と太陽
最近、趣味が変わったのかもしれません。
考える対象が言葉とか、感情移入についてになりました。

言葉のはじまりって、どんなだったのでしょう。
言語学者ではないので正確なことはいえませんが、妄想してみると。

音を聴いたら身体が動いてしまう。
そのやりとりが、言葉のはじまり。

自分が喜んで「ウホ!」って叫んだら、
何となく周りに居た人がそれを模倣したくなる。
「ウホ!」「ウホ!」って。
同じような身体の構造や生活様式を持っていたら、
多分、自分の喜びの叫びは、周りの人にも喜びの音になって、
そうすることで、ある範囲で喜びが伝播する。
そんなこんなで、同じ音に反応する人たちの間で
「ウホ!」のバリエーションが増えて言葉化したかもしれない。

一方で、敵を見つけて「キー!」と叫ぶ、
「キー!」は嫌な音だから、その敵は逃げる。
これが通じるのも言葉のはじまりかもしれない。

味方をつくるためか、敵を自分の意思どおりに動かすか。
真似をするか、違うことをするか、
どちらにしろ、音を聴いたら身体が動いてしまうことがはじまり。

では、ここでもう少し考えてみると、
音を聴くときに、おそらく声を出す人は聴く人の見える範囲にいる。
そうならば、見たものと聴いたものを同時に模倣する。
ある人は両手を挙げて「ウホ!」という。
周りのみなも同じように、手を挙げて「ウホ!」というと、
最初に「ウホ!」を叫んだ人の気分が分かってくる。
一人が下を向き「ウォーン」と叫んで、
周りも真似をすると、なんとなく悲しい気分が伝播する。
それって、既に身体の模倣による感情移入。

そういうのって、身の回りになかっただろうか。
映画とか小説は、身体的なものというより、
もう少し、物語や身体的想像力の問題のような気がする。

プロレスとかはそれに近いのかも。
身体を全く一緒に動かすわけではないが、
身体や声から、リングの上の人に感情移入してしまう。

多分、それ以外にも心動かされる要素、
例えば、見る人の予想を裏切るストーリー的な快感などいろいろあると思いますが、
何か関係はあるかもしれない。
# by w_junji | 2010-12-09 00:09 | Trackback
リサーチプレゼンテーションとしての展示
人が、どこかで知りたいと感じていたものだけど、未だ明確には問われていない。
そういうものの答えを、体験として提示する。
答えをコンテンツそのものではなく、フレームワークとして提示すると、
体験者は自分の記憶をそのフレームにあわせて呼び起こす。
そして、浮かび上がった記憶には、一つの法則・言葉が与えられ、心に定着する。

自分はこのような過程に関与しているのだと思いました。

文化庁メディア芸術祭京都展

「Parallel Lives」
安藤英由樹, 草地映介, 渡邊淳司

本作品は2台のタッチパネルモニタからなり、
それぞれのモニタ映像のなかには人が歩いている。
ひとつのモニタのなかは実体のみで影がない人の世界で、
もう一方のモニタのなかは影のみの人の世界である。
モニタに映る人が触れられると、触覚を伴って消え、もう一方の世界に現れる。
人は触れられることで、その存在の形態を変えながら2つの世界を行き来する。
実体と影の2つの世界が、触覚を通して結ばれることで、
わたしたちの見る触るという感覚と、何かが存在するということの意味を問いかける。
# by w_junji | 2010-09-02 19:41
触り言葉で話してみよう
キッズプログラムといいながら、幅広い年代、多くの方の参加をお待ちしています。
もしいらっしゃる場合、予めご連絡いただけると確実です。


ICCキッズ・プログラム2010 「いったい何がきこえているんだろう」
2010年8月4日(水)~9月5日(日)(月曜休み) 11時~18時
インターコミュニケーション・センター(ICC)


ワークショップ「触り言葉で話してみよう」
早川智彦+松井茂+渡邊淳司

2010年8月14日(土)、15日(日)、28日(土)、29日(日)
各日2回:13時~14時30分、15時30分~17時


・展示の様子
http://www.junji.org/texture/
# by w_junji | 2010-08-13 01:23
ひとごとのようなわたし
なんとなく、自分の中では確信はあるのだけど、

うまく言葉にならないとき、どうしますか?

友人たちの答えは。

・寝て考えてみます。

・じんわり浮かんで来るのを待っています。

とのこと。

なんだか、自分の身体や意識を少し客体化していて、自分をひとつの装置としてみているような。

そういう感じ。とてもよいなぁ。

そうだよね。と笑ってしまった。

ぼくもそうする。


昨日の心音移入の詩ではないですが、

考えたこと、言ったことの何倍も伝わったとしたら、それは奇跡かと思ってしまう。

そういうことって、元気になるにはとても大事。

同じ目線、感覚をもったひとと何かが伝わり、想像・創造が生み出されていく感覚。
# by w_junji | 2010-08-11 00:23 | Trackback
あ、いま、心音移入しちゃった・・・
2121で展示されている「心音移入」という作品の名前を
タイトルのように使っている方がいらっしゃるそうです。

また、心音移入に関して、以下のような、素敵な詩を書いてくださった方がいらっしゃいます。
種生芽実(たねおいめぐみ)さん という方で(ウェブで詩を発見しました)、
ウェブには詩を中心に掲載されています。
許可をいただき、ここに引用させていただきます。
自分も、世界と心が重なる感じ、平和につながるとよいなと思います。

・・・・・・・

心音移入より

こどものスタート前
こんなに小さなこどもにも、わたしのどくどくは重なる。

音ひとつで、たにんがたにんじゃなくなる。

うつるのは、わたしではないどなたか。

けれども、聞こえるわたしの心音はなぜだかそのどなたかに重なることができる。

どなたかは、どなたかであり、

わたしは、わたしである。

会ったこともない、どなたか。

音が重なったとたんに、
気持ちを知ることができたような、
どなたかのこともとおいひとではなくなる。
気持ちを理解できる、そんな気がしてくる。

心音を重ねる。

ひととわたしが重なる。

個と個であるが、同じ気持ちを抱くものであぁる事を知る。

すると、どうだろう。

分かり合えないひとなど、いないのではないかという気持ちになってくる。

1つずつくらいわかる気持ちがあるんじゃないか。

心音を重ねてみたら 平和になる気がした。
# by w_junji | 2010-08-09 18:08 | Trackback
いきるためのメディア 知覚・環境・社会の改編に向けて
企画自体は3年以上前からいただいていたのですが、
やっとでました。

『いきるためのメディア -知覚・環境・社会の改編に向けて 』 (春秋社 2010)

渡邊淳司 編著、田中浩也 著、藤木淳 著、
丸谷和史 著、坂倉杏介 著、ドミニク・チェン 著

以下、オビより

拡張現実、クラウド型コミュニケーション、情報を物質に変える3Dプリンタ。
日常に浸透する情報技術によって私たちの生活はどう変化するのか。
最前線の探究例から、“未来”を描き出す。


よろしければ、ぜひ、ご購入ください!

直接会える方には、著者割引でお譲りできると思います。

また、書評してやるから、サンプル送れ
という方がいらっしゃいましたら、w_junji@hotmail.com まで。

よろしくお願いいたします。

# by w_junji | 2010-08-07 17:22 | Trackback
「告白」という映画
2004年にGas Van Santの「エレファント」を見たときの感触と似てる。

何がすごいのか、すぐにはわからないのだけど、
見たあと、救われて元気がでるのと同時に、研究をやめてもいいんじゃないかという気分になる。

「エレファント」とちがって、美しさに圧倒されることはないのだけど、
出演者の選び方とか、なんとなく背景にある人間のイメージが似ているのかもしれない。

日常と非日常と、狂気と愛と、他人事と自分ごと。
救いと絶望。エンタテインメントとシリアスさ。

相反するものが矛盾なく強く存在している。


「なぁーんてね。」



という日本語は、矛盾をうまく同居させる気がする。
どう使われているかは映画を見てのお楽しみ。

http://www.elephant-movie.com/elep_index.htm
http://kokuhaku-shimasu.jp/index.html
# by w_junji | 2010-07-29 01:58 | Trackback
“これも自分と認めざるをえない”展
2010年7月16日~11月3日 21_21 DESIGN SIGHT

佐藤雅彦ディレクション “これも自分と認めざるをえない”展

「心音移入」
安藤英由樹+渡邊淳司+佐藤雅彦

体験者は、聴診器を自分の胸にあて、
ヘッドフォンを通じて自分の心音を聞きます。
そのとき、目の前には、緊張している人の映像が流れます。
(たとえば、運動会スタート前でドキドキしている子供)

自分の心音を聞きながら映像を見ているうちに、
その音が自分の心音なのか、映像の中の人の心のどきどきなのか
わからなくなってくる。

心音が感情移入をする架け橋になる。
だから、心音移入という作品名。

心臓はワタシにとって、とっても大事なものだけど、
そこから聞こえる音、心音を聞いても、
自分のものであるのか他人のものであるのか区別することは難しい。

自分にとって大事なものなのに他人との区別がつかない。

だけど、自分という個人を成立させる大事なものがオリジナルでなかったとしても、
それに何の問題があるだろうか。

むしろ、大事なものを共有しているからこそ、
ワタシは、他人の緊張感だったり、心の動きを想像をすることができる。

# by w_junji | 2010-07-17 16:10 | Trackback(1)
ちょっとした希望
疑問符から広がり始める世界がある。

誰もが”終わり”と感じていることに、実は”続き”があった。

誰もが”複雑”だと思っていたことは、実は”単純”であった。

誰もが”同じ”だと思っていたことは、実は”異なる”ものであった。

誰もが見落としてしまう”小さな”ことに、実は”全て”が込められていた。

誰もが”そのまま”解釈してしまうことの背後に、”メタファ”があった。


むかしは、才能を持った他者に出会うと、ため息が出て、少し落ち込むこともあったけど、
今は、ずっとその人の成長や変化を見続けていきたいという気持ちが先に出るし、
何か自分もその力になれたらと思う。


自分は自分のできることをやり続けることしかできないし、
あと、今、自分がやっていること、今の私を支えているものを誰かに伝えることで、
誰かの何かが少しでも変わるのなら良いと思う。

それしか、私には誰かの役に立つ方法がないし、
それができると信じてる。確信より、もっと強く。
# by w_junji | 2010-06-06 03:50 | Trackback
透明な感じ
なんだか、私にとって世界は感じるもの、そして、私のなかを通っていくもの。

自分が世界を観測する主体にならないこと。

むしろ、観測する装置自体になること。

そうしないと、いつか自分に押しつぶされてしまう。

自分に奢ることも、他者を蔑むこともなく。

ただ、そのままに。
# by w_junji | 2010-05-23 03:04 | Trackback


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